田辺城

別名 舞鶴城 付近住所 京都府舞鶴市南田辺15-22 現在 舞鶴公園
2009/5/4 碑・案内板アリ 日本城郭大系


細川氏
藤孝→
忠興 

京極氏
高知→
高三→
高直→
高盛 

牧野氏
親成→
富成→
英成→
明成→
惟成→
宣成→
以成→
節成→
誠成→
弼成 
 田辺城は舞鶴城とも称され、その築城は戦国群雄のなかで智将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)8月、織田信長より丹後国をあてがわれ、子忠興とともに縄張りしたことに始まり、天正10年代に完成したといわれている。
 慶長5年(1600)7月、石田三成方1万5千騎の大軍に攻められた幽斎は、わずか5百人の兵で田辺城に籠城して50余日を戦った。古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎が八条宮智仁親王の使者に古今相伝の箱に和歌一首を添えて献上した、世に言う古今伝授は籠城のさなかのことである。その後、忠興は関ヶ原合戦の功により豊前中津に加封され、代って京極高知が入国、元和8年(1622)高知の遺命により丹後国を三分し、庶子の高三が城主となって3万5千石を領し田辺藩が成立した。寛文8年(1668)京極氏が但馬豊岡に移封のあと牧野親成がこれに代わり、以後牧野氏が明治2年(1869)の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城した。
城は、細川氏の築城後、京極氏、牧野氏が拡張・改修をおこない、ほぼ現在の舞鶴公園地にあたる本丸を、二ノ丸・三ノ丸・外曲輪とそれぞれの堀が囲む輪郭形式の平城として整備され、さらに東の伊佐津川、西の高野川、南の低湿田、北の湾海は総濠としての役割をはたした。
 なお、舞鶴の地名は、明治2年に藩名が城号をとって舞鶴藩と称されたことに由来しており、この公園内には築城当時の天守台石垣をはじめ、本丸、二ノ丸石垣や幽斎ゆかりの心種園などの遺構がいまにのこり往時を偲ばせている。

細川藤孝(幽斎)
 細川藤孝は、天文3年(1534)室町幕府重臣 三淵晴員の二男として生まれ、有力な幕臣 細川氏の養子となり、将軍の側近として室町幕府をささえました。
 織田信長の家臣となった藤孝は、明智光秀とともに丹後・丹波を攻略。天正8年(1580)丹後国は細川藤孝・忠興親子の領国となり、細川親子は、この地に田辺城を築きました。
 天正10年(1582)5月、「本能寺の変」で信長が光秀に討たれると、藤孝は、髪をおろして「幽斎玄旨」と号して田辺城に移り、明智光秀の誘いには応じませんでした。藤孝は光秀に天下人の器量があるとは考えてはいませんでした。
 その後、関ヶ原の合戦で息子忠興は、徳川家康に味方して功をあげ、細川家は九州へ加増転封されました。田辺籠城戦によって石田方の大軍を関ヶ原に参戦させなかった幽斎の功も大きかったのです。
 足利将軍、信長、秀吉、家康と、ときの天下人をささえた幽斎は、慶長15年(1610)77才でこの世を去りました。